2008.07.21発行WIND FROM FUTURE Vol.22
2008.07.21発行
目次
■床下換気「ハイブリッドシステム」早わかり解説
■天井裏換気システム 新オプション紹介
HISTORY OF S ~SEIHO小史~
第22回「不良品で経営に行き詰まる」
社長に絶縁状をたたきつけ、私は松長電機を飛び出した。昭和五十五年八月だった。同時に、九州松下電器との協力関係をにらんで、西邦商事を西邦電機株式会社に改称した。唯一残った西邦電機の経営に、専念せざるをえなくなった。二足のわらじの中途半端がなくなり、気分的にすっきりした。ところが、ヨチヨチあるきの会社経営の全途は多難だった。
そして九月、松長電機と九州松下の取引が終わったのを受けて、翌十月から西邦電機は、九州松下電器の専属協力会社となり、松長電機で造っていた洗濯機・脱水機用モータの捲線製造を引き継いだ。西邦電機は諫早と千々石に工場をもっていた。それまで松長電機の下請けの単純な仕事ばかりやってきたから、高度な捲線を造るような技術は必要なかった。したがって、捲線の技術はまだ育っていなかった。
九州松下に納めたモータが「不良品」として、ドサッと突き返されてきた。造り直すために、材料費がかさんできた。
モータの固定子に何重も巻きつけるコイルは、一キロ七〇〇円から八〇〇円もする銅線だった。
それが不良品となると、廃品回収業者にキロ五〇円以下に買いたたかれて、引き取られていった。材料費の上昇で、六人の社員と三十人のパート(小長井・千々石町間を一時間かけて送迎のマイクロバスを運行し、千々石の長崎工場では数人のベトナム難民を使っていた)に給料を払うと、毎月の赤字は、およそ一〇〇万円強にのぼった。しかも改善のきざしは見られなかった。
仕入れは現金、手形は切らない。無借金主義こそ、私の経営のひとつの大きな鉄則だ。毎月の赤字分は私の退職金や貯金から補填してきたが、一年近くになると、私の貯金の大半はそれで消えた。
「どうせ裸で生まれた身だから」
いざとなれば、土地と工場を処分し、私が裸になれば、他人に迷惑をかけることはないだろうと、さすがの私も腹をくくった。
私一人ならば、いちはやく見切りをつけていただろう。だが、四十人近い従業員がいて、頑張ってくれていることを考えれば、自分の一存で、あっさり投げ出すわけにはいかなかった。松長電機は五年近くかかって、捲線の技術を養成したが、西邦電機はそう悠長なわけにはいかない。
私は九州松下に乗り込んだ。
「うちがつぶれたら、あんたのところも困るやろう。技術の人間を派遣して、早う一人前に指導せんかい」
半ば脅しだった。おそらく、顔つきも変わっていたであろう。なりふりなんかに構っておれなかった。
その窮地を救ってくれたのが、私が開発した床下換気扇だった。
そのころ、床下換気扇を試作させ、わが家や工場で実験を繰り返してきた。湿気の多い日本の風土から住宅を守るために開発したもので、私は、アイデアとしては「これはヒットする」と、自信をもっていた。ただ、どのようにして販売するかについては、まだ何もなかった。