2008.01.21発行WIND FROM FUTURE Vol.20
2008.01.21発行
目次
■2008年2月より新社名となります。「セイホープロダクツ株式会社」
■新商品「ファイヤーウッドガード」2月発売開始
HISTORY OF S ~SEIHO小史~
第20回「九州松下を退職」ー後編ー
設立当初は社員を雇うことができず、仕事は下請けに出した。
仕事を右から左にまわすブローカーのようなものだった。労賃が安い刑務所などを使ったので、半年もしないうちに、十分もうかった。そしたら自社工場が欲しくなった。
諫早市周辺の市町村をまわって、土地を捜した。
長崎県南高来郡千々石町に、八〇〇坪(約二六四〇平方メートル)の町有地があることがわかった。
島原半島の西側、橘湾に面した現地に行くと、町長が待ってくれていた。こちらは三〇〇坪(約九九〇平方メートル)でよかったが、
「切売りはしません。全部買ってください」坪(約三・三平方メートル)二万円で総額一六〇〇万円、という。
支払いについては、「地元の人間を雇ってくれるのなら、三年払いで、金利七%でよかですよ」 と言ってくれた。それで決めた。
この日のために、私は給料の中から、必ず一割を貯金してきた。二十五歳で結婚してからも、このことは妻に守らせた。その貯金などを合わせ一六〇〇万円が手元にあり、土地代は何とか工面できた。私は全額を立て替えた。立て替え分は、その土地を担保に、西邦商事が銀行から融資を受け、三年間で私に返済してくれた。
工場用地ができたが、私は建設を急ぐつもりはなかった。町長は雇用拡大に熱心のあまり、
「早く工場を建てて、地元の人を雇ってください」
と、矢の催促。地元からの雇用は、用地を買うときの約束でもあり、とりあえず十五人を採用した。そして三〇キロ離れた松長電機で三カ月間、技術を身につけてもらうことにした。西邦商事は、私が最終的に落ち着く場所として決めていた。そのためにも、早く社員を一人前に育て、経営を確固たるものにしなければならなかった。
さて、C事業部長に辞表を提出したが、
「君の後任がみつかるまで、これを受け取るわけはいかん。明日もこれまでどおり会社に出社してくれ」
と、受理されなかった。
辞表を出したままで、これまでどおり営業にまわるという異常事態が、一年八カ月もつづいた。
昭和五十三年十二月二十日、やっと辞表が受理された。
二十二年四カ月勤めた九州松下電器を、円満退社となった。