2007.10.1発行WIND FROM FUTURE Vol.19
2007.10.01発行
目次
■サーモトレーサーによる天井裏と室内、人体の温度比較
■製品の安全性に対する当社の取り組みについて
HISTORY OF S ~SEIHO小史~
第19回「九州松下を退職」ー前編ー
私に大分事業部へ行ってくれ、という転勤辞令が出た。昭和五十二年四月だった。この年、九州松下電器はモーターの生産基地を、福岡本社から宇佐市の大分事業部に移すことを決めたからだ。長崎に愛着を感じるようになっており、大分に行く気はまったく起こらなかった。辞令に従わない以上、辞めざるをえない。それが宮仕えの悲しさというものだ。会社に未練はなかった。
「大分行きはお断りします。辞表を出します」
と、翌朝辞表を提出した。
九州松下に入社して二十一年目に入っていた。中学卒と同じ待遇で入社していた私は、入社三年目にして早くも、「一生いるところではない」と、思うようになった。後から入ってきた、同じ学歴の者が、私より早く出世していったからだ。また、管理職になって、昇給の査定をするときは、給与面で自分がいかに損をしていたかが、はっきりとわかったからだ。他人の昇進や昇給を見るたびに、入社時研修で聞いた「現場の人間はな、なんぼ頑張ったかて主任どまりや」という言葉がよみがえった。この会社では先が読める。課長の次は、良くて工場長。悪ければ課長のままだろう。そういうことが見通せた。ころあいをみて辞めようと、私は心に決めていた。そのときから給料の一割を、また、賞与はないものとして、全額を貯金して将来に備えてきた。
松長電機も、次の私の受け皿のひとつにちがいなかった。実は、私は一〇〇万円の資本金を知人と共同出資して、諫早市の駅前に十二坪(約四十平方メートル)の建物を借りて、会社を設立していた。一年前の昭和五一年二月だ。それが西邦電機の前身となる西邦商事である。
九州松下を勤める私が社長になるわけはいかず、もう一人の出資者に社長を引き受けてもらってスタートした。
捲線の製造は、流れ作業でできるところもあるが、それではできない細かい部分もある。西邦商事は、松長電機の下請け会社として、細かい作業専門に請け負った。