2007.01.1発行WIND FROM FUTURE Vol.16
2007.01.01発行
目次
■ライフディフェンス2 その実力
■料金プラン(買い取りの場合)
■Q&A
HISTORY OF S ~SEIHO小史~
第16回「パートを丸抱えした会社設立」
私は中原筆二町長の自宅を訪ねた。
「誘致企業」なんだから、町の方でなんとかならんのですか。それでなかったら、工場進出は白紙撤回ということになりますよ」
「それは弱った。農業委員会の開催は毎月一回。次は十一月二十七日、弱りましたな」町長は「弱った」を連発するばかり。
「それじゃ、農業委員の家を回って、同意をとってもらうわけにはいきませんか」
個別訪問作戦を打ち出して、私は食い下がった。そして、町長に尋ねてみた。
「地元がオーケーしたものを、県が覆すことはありますか」
「それはありません。大石さんの言われるように、農業委員会の専決処分ということにしてもらって、農業委員会を個別に回って同意を取りつけるほかに手はないな」
狭い町なので便利はよかった。翌日、農業委員の許可をもらって、直ちに長崎県に提出した。十 一月末には九州農政局の許可が出る見通しとなったが、それを待っていたのでは、年明け早々からの操業は絶望的になる。
町当局は、「県との協議が終わるまで、何もしないでくれ」と言ったが、それまで待てるわけがない。本格的な冬に入ると、乾きが遅くなる基礎コンクリートだけでも先に打っておこうと、こっそりはじめた。見つからないように、コンクリートを打ったところは、上からムシロをかぶせて隠した。二〇〇坪(約六六〇平方メートル)のコンクリートの床が乾くころ、農業振興法、建築基準法などの手続きがすべて終わり、おおぴらに建築に入れるようになった一日も早くできるようにと、一括発注を止め、鉄骨組み立て、屋根、壁、トイレ・食堂などの水回り工事、電気工事などを細かく分離し、別々の業者に発注した。
十二月二十二日から私は大阪に出張した。機械設備の搬入・据えつけは二十七日の予定だった。二十五日夕方、大阪から工場に電話を入れた。
「まだ、柱が六本立っただけです。屋根もないから、機械は移設できません」と、移設担当者は言う。翌日の最終便帰ってきた。工場に直行したが電話のとおり柱が立っているだけで、屋根はまだだった。
二十七日の朝を迎えた。屋根ふきの陣頭指揮に立った。突貫工事でスレートの屋根をふき、終わったところから、機械を据え付けさせた。機械の据え付けは、予定どおり終わったが、横壁はなかった。横殴りの雨が降れば、機械は確実に水浸しになるところだったが、幸い雨は降らなかった。
十二月三十日に横壁や窓を取りつけ、トイレを急がせた。
年が明けた。トソ気分にひたる間もなく、二日から内装工事をはじめた。三日に終えた。四日は幹部社員を出勤させ、総点検をした。五日に試験運転を行い、異常はどこにもないことを確認した。六日に、予定どおり操業開始の運びとなった。 パートを丸抱えにした協力会社、松長電機株式会社(資本金五〇〇万円)は、こうして昭和五十一年一月六日、操業をはじめた。
これまでのパートは、社員として採用され、四十五人の従業員でスタートした。諫早から送迎用のマイクロバスを運行した。操業初日に千八〇〇台ができ、月産五万台のめどはその日のうちに立った。
私はパートに対して、「全責任をもつ」と約束したばかりに、用地、スポンサー捜しにはじまる下請会社設立までの一切合財に立ち合わざるをえなかった。わずか四、五カ月の間に、いろんな壁にぶちあたり、途中、投げ出そうかと思ったことも再三あった。けれども、その都度「逃げるな大石。パートとの約束はどうする」と、内からの声を聞いた。責任をはたすことができた。内なる声は「よくやった」と言っていた。